赤坂明把我最后的希望剥夺了。不用期待我了。

[译] 艺术理论备忘录 文 / 中原中也


有一点要说的是,当你看见一只手的时候,千万不要马上说出,“这是只手”,流于嘴边挂着的“手”这个字眼。应该把那只手,再深刻地感受一下。


这就是说,做艺术的人如果看到什么东西,马上就想起来它的名字,那可是万分不幸,是要不得的。人们总是有种后天的意识,那就是没有什么约束,不戴着手铐脚镣起舞,就不行。正因如此,人们才会“睹物思名”,而不思人,更不思物体本身。这种拘泥于条条框框的意识,永远沾不上艺术的边。换言之,它和艺术是互相排斥的。


所以说,诗人腹内有墨、胸有成竹、心中异彩纷呈,不能说是只靠努力,就能做到的。但是身为诗人,也绝不能因为这努力看似是白费的,就放弃努力。只是,如果光就着“睹物思名”,整日只知玩弄辞藻,从这种后天的意识出发的话,毋宁说是有百害,而无一益的。


有一点,是一定要了解的。人们读书时会颔首微笑,那是因为有趣;但是书本诗歌,可不会因为读者的微笑,而自己变得有趣啊。若是一部作品果真引人入胜,读到精彩的部分时候,人们反而会像咬碎了牙根里的苦囊,噤若寒蝉,沉下脸来。虽说,继续读下去的话,也会莞尔轻笑起来,可你看啊:苦涩地沉下脸来的时候,人还身处艺术的境界中;一旦暗自夸耀于心得,微笑起来,那就又回到日常生活的世界里去了。


且说,如果一段文字,从头到尾都是无尽的趣味,恐怕读者就连微笑的工夫,都没有了。而如果让趣味,在须臾之间升至绝顶,随即归于平常的话,读者就会哑然失笑。艺术家的文字、气质,之所以厚实丰满,正是因为他们有充足的耐心,达到这个制高点,对于他们来说就是迟早的事情,所以多晚都不算晚。而在生活的世界里,人们却总是期待着别人读到自己的文字,马上就笑出声来,稍微想到个有点意思的词句,就恨不得赶紧放出来,炸个满堂彩。世间的人们,擅长给名词作解释,显得很有些小聪明,全然不知这把艺术家们丢进了怎样的危机之中。尽管如此,如果一个艺术家,对于这世间的种种,全然不觉得是人们愚劣浅薄的话,那就一定可以说是十分奇妙了。

尤其值得注意的是,比较两个诗人的时候,绝不能因为其中一人写的诗更加浅显易懂,就妄谈说他更有一分诗人的气质云云。毕竟,一个人对玩弄辞藻的世界知之甚少,并不能说明他对名词产生之前的“概念”的世界,就是心知肚明的。非要举个例子,就个人来说的话——把10件事情,用9个名词代表。和把8件事情用8个名词代表。虽然后一种情况,当然也不算是浅薄、马虎,然而要说文采的遒劲艳丽,还是前者更好一些。
 
译 / 铝硅磷




 芸術論覚え書(原作)
 
一、「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。

一、名辞が早く脳裡(なうり)に浮ぶといふことは尠(すくな)くも芸術家にとつては不幸だ。名辞が早く浮ぶといふことは、やはり「かせがねばならぬ」といふ、人間の二次的意識に属する。「かせがねばならぬ」といふ意識は芸術と永遠に交らない、つまり互ひに弾(はじ)き合ふ所のことだ。

一、そんなわけから努力が直接詩人を豊富にするとは云へない。而(しか)も直接豊富にしないから詩人は努力すべきでないとも云へぬ。が、「かせがねばならぬ」といふ意識に初まる努力は寧(むし)ろ害であらう。

一、知れよ、面白いから笑ふので、笑ふので面白いのではない。面白い所では人は寧ろニガムシつぶしたやうな表情をする。やがてにつこりするのだが、ニガムシつぶしてゐる所が芸術世界で、笑ふ所はもう生活世界だと云へる。

一、人がもし無限に面白かつたら笑ふ暇はない。面白さが、一と先づ限界に達するので人は笑ふのだ。面白さが限界に達すること遅ければ遅いだけ芸術家は豊富である。笑ふといふ謂(い)はば面白さの名辞に当る現象が早ければ早いだけ人は生活人側に属する。名辞の方が世間に通じよく、気が利(き)いてみえればみえるだけ、芸術家は危期に在る。かくてどんな点でも間抜けと見えない芸術家があつたら断じて妙なことだ。
 尤(もっと)も、注意すべきは、詩人Aと詩人Bと比べた場合に、Bの方が間抜だからAよりも一層詩人だとはいへぬ。何故ならBの方はAの方より名辞以前の世界も少なければ又名辞以後の世界も少ないのかも知れぬ。之を一人々々に就いて云へば、10の名辞以前に対して8の名辞を持つてゐる時では無論後の場合の方が間が抜けてはゐないが而も前の場合の方が豊富であるといふことになる。

(角川書店「新編中原中也全集 第4巻 評論・小説 本文篇」より)


评论 ( 2 )
热度 ( 88 )
  1. 共2人收藏了此文字
只展示最近三个月数据

© AlSiP/铝硅磷 | Powered by LOFTER