赤坂明把我最后的希望剥夺了。不用期待我了。

[翻译][中原中也] 献给河上的诗论 / 河上に呈する詩論


在童年里,深刻地感受到的事情——太过散文化地表现的话就会悲伤起来,所以现在,化作诗歌得以实现了。
本来,词语都是用来说明事理的东西,但是就以这种方式使用它们,就会非常困难,在那种情况下也不可能总结出理论来。
多半的诗人,都陷在“要不要写成一个故事呢”这种感觉之中。

说起来,短歌之所以只能给人擦肩而过的哀伤之感,就是因为作它的人身上没有协调的和声。他拘泥于空间和人情世故。短歌诗人就算竭尽全力,也只能到达泛神论就为止了。人类的那种,终极的滚转圆滑之性,那种对个人而言就是全部的、在无意识中持续下去的欣然怡然之情,在他们身上根本找不到。对于这种人,我现在,称他为“自然诗人”。

真正的“人类诗人”,(像魏尔伦这样的)与自然诗人之间,隔着无限高的台阶。我把这称为“大多数诗人”。
“大多数诗人”与其他两种诗人不同,就在于他们的分布方式,形成了诗歌的中枢这件事。
他们,凭借着认识能力或者意识,自己处于被动状态把心中的感兴翻译成诗。这种时候“自然诗人”,则把作为感兴对象的现象、物理,感性地、过度侧重于生理现象地,写下来。而同时,“人类诗人”则——不,他却是,在对观念从来毫无期待的自觉之中,呼吸着的“他本身”。
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五年以来,我是一个因为恐惧而变成了半意识者的无意识者。——暂时把天层忘却,变成了这样的感觉。然而,现在却要从古旧过时的轩柱之间拜退了。
请你好好地,试着鉴赏一下我的诗吧。我的诗里,该是有安稳的气味,和优柔的抒情吧。我的诗里该是有不受利害的污染的、熟知着自由的灵魂吧。
这样,我想要说的话也就可以说出来了。
所谓艺术,并不是对自然的模仿,而是对神的模仿!
(要说为什么,那就是因为神并不抱持任何理论。然而却仍不是动物。)
一千九百二十九年六月二十七日



 子供の時に、深く感じてゐたもの、――それを現はさうとして、あまりに散文的になるのを悲しむでゐたものが、今日、歌となつて実現する。
 元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのまゝうたふに用うるといふことは、非常な困難であつて、その間の理論づけは可能でない。
 大抵の詩人は、物語にゆくか感覚に堕する。

 短歌が、ただ擦過するだけの謂はば哀感しか持たないのは、それを作す人にハーモニーがないからだ。彼は空間的、人事的である。短歌詩人は、せいぜい汎神論にまでしか行き得ない。人間のあの、最後の円転性、個にして全てなる無意識に持続する欣怡の情が彼にはあり得ぬ。彼を、私は今、「自然詩人」と呼ぶ。

 真の「人間詩人」、(ベルレーヌの如き)と、自然詩人の間には無限の段階がある。それを私は「多くの詩人」と呼ばう。
「多くの詩人」が其他の二種の詩人と異るのは、彼等にはディストリビュションが、詩の中枢をなすといふことである。
 彼等は、認識能力或は意識によつて、己が受働する感興を翻訳する。この時「自然詩人」は感興の対象なる事象物象をセンチメンタルに、あまりにも生理作用で書き付ける。又此の時、「人間詩人」は、――否、彼は、常に概念を俟たざる自覚の裡に呼吸せる「彼自身」なのである。
     ――――――――――
 五年来、僕は恐圌怖のために一種の半意識家にされたる無意識家であつた。――暫く天を忘れてゐた、といふ気がする。然し、今日古ぼけた軒廂が退く。
 どうかよく、僕の詩を鑑賞してみて呉れたまへ。そこには、穏かな味と、やさしいリリシスムがあるだらう。そこに利害に汚されなかつた、自由を知つてる魂があるだらう。
 そして、僕は云ふことが出来る。
 芸術とは、自然の模倣ではない、神の模倣である!
(なんとなら、神は理論を持つてはしなかつたからである。而も猶、動物でもなかつたからである。)
千九百二十九年六月二十七日

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