赤坂明把我最后的希望剥夺了。不用期待我了。

[翻译][中原中也]诗的履历书

是在大正四年年初的时候,还是年末的时候,我不记得了。总之,是在一个寒冷的早晨,我为那年正月死去的弟弟歌唱,那大概就是我最初的诗吧。那时我在学校看到,正行(注1)在告别的时候说的“而今再把龙颜拜”,这句话给了我作诗的提示。


大正七年,我遇到了喜欢诗歌的实习教师。那人成了我的恩师。那时候当地报纸上有短歌专栏,所以我就向报社投稿了短歌。


大正九年,在杂志上发现了诗人别雷(注2)的作品,得知所谓的“破格语法”(注3),其实在很久以前就被使用过了,于是我也安下心来。


大正十年,我和友人一起印刷了一部名叫《末黑野》的歌集。卖了很少一点。


大正十二年春天,我因为沉迷文学,考试落第了。转校到了京都立命馆中学。出生起第一次离开父母,我开心期待得几乎要飞起来;那年秋季的向晚,一个寒夜里,我在丸太町桥畔的旧书店里,读到了《达达主义者新吉的诗》。对于其中的若干篇诗歌,我怀抱着感激之心。


大正十三年夏天,富永太郎来到了京都;从他那里,我学到了关于法国诗人们的种种存在。可他却死在大正十四年的十一月。我对他甚为怀念。


同年秋天,我写出了诗的宣言。“人类之所以变得不幸,是因为最初没有再三考虑。正是这再三考虑,把人类变成了政治性的动物。然而,纵使这是不该发生的事情,政治性的动物还是成了政治性的动物。也就是说,我自己,是绝对不要成为那种动物的,我是一个悲叹者。”——开头是这样写的。


大正十四年,经人介绍认识了小林。


大正十四年八月前后,愈发坚定了专注于诗歌的决心。


大正十五年五月,写了《朝之歌》。七月前后把它拿给小林看了。这是我第一次来到东京把诗给人看。也就是说,我已经粗略地给《朝之歌》制定好了方针。虽然制定好了方针,但是只为了写出十四行,就经历了这么多麻烦,让我气馁不已。


昭和四年。出版了同人杂志《白痴群》。


昭和五年,《白痴群》出版第六号后废刊。此后,我闭关雌伏。


昭和七年,在《四季》第二夏号上,刊载了三篇诗。


昭和八年五月,出于偶然之事,成为了文艺杂志《纪元》的同人。


同年十二月,结婚。


昭和九年四月,退出《纪元》。


昭和九年十二月,通过三笠书房刊行了《兰波 学生时代的诗》。


昭和十年六月,翻译了纪德全集中的一篇《日历》。


同年十月,得一男儿。


同年十二月,刊行了《山羊之歌》。


昭和十一年六月,《兰波诗抄》(山本文库)刊行。


从大正四年开始,至今为止写出的诗篇约有七百首。其中五百首被撕毁。


从大正十二年开始,到昭和八年十月为止,每天日复一日地穿行于街巷之间。
夜间读书,早晨睡觉,正午时分起床,从那时直到午夜十二点左右出门步行。


注释
(1)楠木正行(くすのき まさつら 约1326-1348),日本的南北朝时代武将。
(2)安德烈·别雷(Андрей Белый 1880年10月26日-1934年1月8日),俄国诗人、小说家、评论家。
(3)这种手法在达达主义文学中也经常被用到,简单来说就是“前人未用过的措辞”。说到这个,后来“中原中也赏”就是颁给那些表达了“新锐的感觉”的诗人的。

詩的履歴書──大正四年の初め頃だったか終頃であったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を歌ったのが抑々の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所、「今一度天顔を拝し奉りて」というのがヒントをなした。
 

大正七年、詩の好きな教生に遇う。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。
 

大正九年、詩人ベールィの作を雑誌で見かけて破格語法なぞということは、随分先から行われていることなんだなと安心す。
 

大正十年友人と「末黒野」なる歌集を印刷す。少しは売れた。
 

大正十二年春、文学にりて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
 

大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思う。
 

同年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になったのは、最初の反省がなかったのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかったにしろ、政治的動物になるにはなっちまったんだ。私とは、つまり、そのなるにはなっちまったことを、決してめはしない悲嘆者なんだ。」というのがその書き出しである。
 

大正十四年、小林に紹介さる。
 

大正十四年八月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
 

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数がかかるのではとガッカリす。
 

昭和四年。同人雑誌「白痴群」を出す。
 

昭和五年、六号が出た後廃刊となる。以後雌伏。
 

昭和七年、「四季」第二夏号に詩三篇を掲載。
 

昭和八年五月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
 

同年十二月、結婚。
 

昭和九年四月、「紀元」脱退。
 

昭和九年十二月、「ランボウ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
 

昭和十年六月、ジイド全集に「暦」を訳す。
 

同年十月、男児を得。
 

同年十二月、「山羊の歌」刊行。
 

昭和十一年六月、「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。
 

大正四年より現今迄の制作詩篇約七百。内五百破棄。
 

大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。
 

(「新編中原中也全集・第4巻」より)

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